製糖記念小公園設置の趣旨
新中糖産業㈱(旧 中部製糖㈱)の創立50周年記念事業として製糖記念小公園を平成23年9月13日に設置しました。本施設は西原町に残された製糖に関する歴史的足跡を反映した内容で紹介し、西原町は糖業とゆかりの深い町であることを伝え、糖業の移り変わりを後世に語り継ぎ、今後の製糖の発展を願う施設としました。
沖縄のさとうきびは、中国から導入され栽培が広まった。江戸時代(1600年代)には、すでに琉球王国の経済を支える重要な農産物であった。琉球王国時代、さとうきびは作付を制限されていたが、廃藩置県後の明治21年(1888年)には作付制限令が撤廃され、各地で本格的に栽培されるようになった。西原町は肥沃な土壌に恵まれていることから戦前戦後をとおして、盛んにさとうきびが栽培された。
西原町は歴史的にも製糖とのかかわりが深く、明治41年(1908年)字我謝(のちの字兼久1番地)に沖縄県臨時糖業改良事務局付属の近代化された工場が設置され、沖縄ではじめての分蜜糖が製造された。
一方、サーターグルマによる製糖も広く普及していたことから大正3年(1914年)西原村字小橋川出身の大城助素氏は従来の鉄製サーターグルマより搾汁効率の高い玉車(ベアリング)式のサーターグルマを開発し、沖縄の製糖技術に一大光明をもたらした。
西原村内では昭和31年(1956年)琉球農業協同組合連合会(琉球農連)第一製糖工場が字嘉手苅に設置され、 昭和34年には西原製糖㈱が字小那覇の飛行場跡地に設立された。
その後、昭和39年製糖企業合理化により両社は合併し、社名を中部製糖㈱へあらため、第一工場、第二工場の2つの工場で分蜜糖を製造した。しかし、第二工場は沖縄本島復帰(昭和47年)前後のさとうきび大幅減産により、昭和52年に閉鎖となった。第一工場は、平成5年に中・南部3社の製糖事業をまとめ引きついだ翔南製糖㈱へ営業権を譲渡した。
翔南製糖㈱が引きついだ第一工場は、工場名は西原工場とあらため、平成10年(1998年)まで製糖をつづけた。昭和31年の含蜜糖製造からはじまり西原町のシンボルともなった2本の煙突の製糖工場は、43年にわたる砂糖づくりの役割を終え、ついに平成11年12月西原町からその姿を消した。
その後、翔南製糖㈱と球陽製糖㈱は平成27年(2015年)の合併により、ゆがふ製糖㈱として再スタートした。